スパロボが好きかと言えば好きな筈だし、中二病が嫌かと言われればそう言う訳でもないんよ。むしろ好きなのよ。
ただ、いまどきのオタクコンテンツってのは、ジャミラ*1という稀有な存在を「自己責任」の四文字で説明してしまうから気に食わないんだよ。
「お前は自分の弱さに負けただけだ」って奴。実に下らない、愚民向けの筋書きだ。
蛇谷がなんかアイドル化してるんだけど、いや俺も好感は持てたんだよね。
本当は義理と人情の人だったけれど、自分と同じ境遇の無能力者の拠り所としてビッグスパイダーを求めた訳じゃない?だからこそ目には目を、歯には歯をに突き進まざるを得なかった。その痛み、或いは正当性はあったんだよ。
固法先輩にジャッジメントの腕章を付けるシーンを褒めてる人がいるんだけど。俺はあのシーンは、「ジャッジメントではない固法先輩は固法先輩じゃない」―――言い換えれば、「私の思い描く先輩でいて欲しい」って解釈をしたのよ。だから気に食わないんだ。それは、「あなたは私のお人形だから、私の言う事だけ聞いてくれ」って言い張るのと同じだよもん。「先輩を私色に染め上げる」と言えば性的だろうか?でも個々人の人格を尊重してはいないよね。
あの話のそれまでの流れから読み取れば、要するに御坂は、固法先輩という善の存在が、自分にとって悪であるアンチスキルの一員であったことが我慢ならない訳じゃないか。勝手に期待を膨らませて、勝手に裏切られたと憤慨しているだけなんよ。これをだから御坂は子供だな、原作破壊だなと言うのは甘いよ。この程度の倫理観を恥じもしない作家は掃いて捨てるほどいるし、実際原作である禁書の倫理観ですら実際の所はあの程度だもの。原作では御坂が弱者にコミットメントする機会が少ないか、でなければ肉親の情が優先される(つまり妹達だ)から覆い被せていられるのであって、実際カミやんを執拗に追い回していた事、「無能力者」が「超能力者」に対して優位である、と言う事を考えていたら、御坂自身学園都市のカーストに疑問を感じてはいないだろう。
禁書のスタンスってのは、敵にも同情される余地を作る、ってものなんだけど、そのスタンスがペラくなるのは「同情の余地」はあっても「正当性」は無いんだよね。いや、正しく言うと無い訳ではないのだけど、それが「正当性」である事を、主人公は認知しない。「可哀想な人だったんだよ」で終わり。つまり最初から最後まで上から目線。
ジャミラとの、或いはムルチとの決定的な違いはそこだよ。特にムルチは公害で汚染された魚類が怪獣になったと言われているからな。それを異物への恐怖感で射殺し*2、「ウルトラマン」という異物によって贖わせる。ここまで理不尽な話が許されるのか?人間というものは、自分の罪を自分で償う事すらしないのか?贖罪の余地があるだろう。だからこそ帰ってきたウルトラマンは変身を拒んだ。自分の正義を疑った訳だ。これが地球人なら、いっそ地球人など滅びてしまったほうが良い。宇宙の正義に照らし合わせればそれが妥当ではないか。―――であっても、怪獣の理不尽な暴力で無辜の人々が虐げられるのは許せない、って話だから、「怪獣使いと少年」は屈指の名作であるのではないか?
禁書にそれは無い。立ちはだかる悪に同情こそすれ、その立場で物事を感じ取る気概はない。「人の立場に立って考えてみよう」とはネチケットの基本的な考え方だが、土台、そのような芸当の出来る生命体はごく少数であり、人と人との繋がりをありがたがる輩はまず「人の立場」を思索する事はないのである。
ってなんか独立エントリするくらい愚痴ってしまった。いまどきの超電磁砲はツッコミどころが数多あれど、それが面白いとは欠片も思えない。そして思うのは、一体こんな話を作っている奴は何を見て何を知り何を受け止めてきたのか、って事だ。悪いけれども、そもそも話の神経に大人の感性を見出せない。誰かに何かを教えるだけの資格を、この話を作っている輩は誰一人として有していないのだ。それはメッセージ性なるものがハナから存在していないに等しいのである。


って訳でVERITAに備えて過去のエウゲー再プレイするわー。
エウゲーは虐げられる側の論理をきっかり描いているからペラくならないんだよ!圧倒的な文章なんて無いけれど、抑えるべき箇所はきちんと抑えているよ!

*1:言うまでもなく有名な、「故郷は地球」に登場する怪獣であり、地球人であったもの。

*2:その動機は御坂がスキルアウトに食らいつく理由と寸分も違わない!何故か、何故なら「罪も無い人々に危害を加える宇宙人は許せない」からだ!