この命より大事なものが

素晴らしい


惚れてしまいそうだ。

映像やBGMなどの演出とかみ合ってこその表現だ。


エロゲとは。
×文学として
○エンターテイメントとして
評するのが正しい、という事、そもそも型にはめた評論自体が間違っている。
んな事言い出したら超現実主義ことシュルレアリスム、というより写真の登場による写実的描写の全否定から始まった現代美術の全ては否定されるべきだし、
もっと言うと純文学とやらもその当時の日本語の「型」に嵌めるというのなら、横文字なんて日本語として正しくないとか言い出せてしまう訳だし、大体じゃあその「正しい日本語」より一昔前の日本語は正しくないのか。
連鎖的に論理を繋げると最終的に漢字を使わず文法もへったくれも分からない原初の言葉で表現するのが正しいと言うことになるぞ、いや、言語すら使えないか。
だから大事なのは、それが文化であるかとか、文学であるか、とか、高尚さや崇高さなんかじゃない。
創作に対して自分が満足できたか、楽しめたかどうかであり、他人の楽しみ方にいちいちケチをつけて「これが正しい文学」と太宰治宮澤賢治を勧めてくる奴は、嫌味を通り越して単なる痛い奴だ。
・・・所で一番困った話、「表現」が何であるか理解していない人間が多い、世間的に高い評価を受けている者にも見受けられるのだから余計に。
いや、ぶっちゃけハゲこと富野のことなんだ、こいつは作家になりきれていないくせに持ち上げられているからなぁ・・・。
例えばエッシャーの「滝」、或いは「物見の塔」を、立体化してくれといわれて出来る訳が無い。
「三次元的な考えでは成立不可能な図形」という解説どおり、あれは三次元の空間では成り立たないものであり、二次元の世界だからこそ成立する概念であり世界なのである。
このエッシャー作品の延長線上にあるものが、所謂萌え絵と呼ばれているものだ。
現実世界に、あんな目の大きい人間がいるわけが無い、二次元の世界だからこそ成立しているものである。
ただだからこそ人間の想念が加えられた「創作」であると胸を張っていえるし、実際型破りというのなら、そのルールの無い世界は底が知れないのだ。
それをただ否定するしか能のない連中*1は、紙の上、二次元の世界、平面の世界に現実をそっくりそのまま持ってくる事しか思いつくまい。
平面の中で表現される世界とは、実際は錯覚の詰め合わせである事に気づいていないのだ。
萌え絵を底が浅いというが、俺からすればリアリティを偏重する連中はつまり「現実」に対する敗北主義者と言っていい、リアルという概念自体、限界も底もたかが知れている。
ルネサンス期で至上とされた写実的表現は写真という発明で完全無欠の敗北を喫しているのが理由。
それが何かの模倣である限り「それ」に辿りつけても上回る事なんてできない、想像の中で生み出された産物であるなら限界は無い、限界が無いという事は、ある一定の場所を突破するとルールすらも存在しなくなっているのだ。
萌えの氾濫?、構うまい、それがエッシャー的世界の流布であるのか、芸術の進化の過程か、到達点か、芸術畑で育った身分としてはむしろ興味深いんよ、萌えは。
人間の手で表現する以上はルールを気にしていては始まらない。
ある程度品質を保つための作法は必要だが、絶対に守らなければならないルールなんてものは、創作の世界では上限を設けるだけで、邪魔にしかなるまい。
延期だってエンターテイメントになる世の中だ、他人の利益を不当に脅かす行為くらいじゃないか、してはいけない事は。
ましてやエロゲが何であるか・・・、絵と文章と音楽と演技とで演出されている途方もない深遠さを持つエンターテイメントなんだよ。
表現の場に限界なんて無い、あるとするなら脳内の妄想で勝手に作っている、というのが今日の結論。



こりゃねぇよ・・・。


兵庫県民(住民票の上では現役)だから言わせて貰うけど。
正直災害対策と言う意味では石原の方が遥かに頼もしいよ。
まぁ、都知事がこれからどうするかは分かりませんが、東京の物価の高さは安全に対する価格、って事でいいのかな?

*1:というか、創作の歴史も知らず、自分の好き嫌いを全体の問題に挿げ替える、的外れな批判しか出来ないだけだと思うけどね。この手合いに歴史的権威をちらつかせる論理で反論すると面白いくらいに発狂してくれるよ?