ネコっかわいがり!―――Memento Mori.


レビューの完全版。


パッケージだけを見るなら、ネコミミ少女と肉欲の限りを尽くすただのヤリゲに見えん事もない。
というよりもむしろ、そう思わせる事が製作者の意図だったのだろう。
ここまで「分かった」配置をしてくると、怒りを通り越して賞賛さえしたくなる。
後日譚を踏まえた上での感想、あと当然のように今川泰宏エンジン全開です。
(ちなみに表題のMemento Moriとは「死を忘れるな」という意味。
黒死病が流行った状況で叫ばれた言葉であることからネコかわレビューの表題に相応しいと判断しました。)


―――Nemo ante mortem beatus.(誰も死ぬまでは幸福ではない。)


大部分を占める個別ルートに関しては割愛。
ただ、ほのぼのとした、幸せな空気を噛み締める事が、この作品を本当に楽しむ(とはものすごい語弊だが)上での必須条件。
此処で終わっていればいいのに、心の中で毒づくも、この心象はトゥルーあってこそのものでもある。
軽くネタ晴らしをすると人間と犬耳とネコミミが共存している世界かと言えばそうではなく、
人類は獣化し最後には理性を失い死に至る奇病「DOTES」に蝕まれていた。
診療所が実は、このDOTESに対するワクチンを生み出すための施設であった事が明かされる。
・・・で、そのワクチン、DOTES感染者から摘出しないといけないのだが、摘出すると死んでしまう。
トゥルーの副題として「A Happy Prince」、つまり「幸福の王子」があてがわれている訳だが、
我が身を削り見ず知らずの誰かを救い続ける診療所という組織そのものが、幸福の王子であったのではないか。

「わたしは、あなたのいる世界こそを守りたかったのに。」


話が非常にずれる上何度も言い続けている事だけど、自分が機動武闘伝Gガンダムと言う作品を心の底から敬愛しているのは、最終話における結論が非常に強烈だったから。
ただの笑いの種として消費されてしまえば良い、と考えていた自分にとって、ドモン=カッシュの告白と、カッシュ博士とカラト委員長の言葉は酷く胸に刻まれたのであった。
エンディング間近のアリスのこの一言と、エンディング中に呟かれる言葉は、ただただ朽ちて行くだけの世界を書き換えるのには十分な衝撃を持っている。
そしてその意味は、ドモン=カッシュが叫んだ言葉に程近く、民衆の救済を是とはしなかった反英雄のそれに近い。
世界に問いかける個人の願望、世界の命運をかけた個人レベルの命題、ネコかわは今川泰宏監督作品に近い性質を持っていると思うのは、自分が今川信者だからか。


―――Tu fui, ego eris.(私はあなたであった、あなたは私になるだろう。)


優作とアリスの関係を示すとするなら、この言葉が適切なのではないか。
優作もかつてはアリスの立場にいたし、アリスはいずれ優作と同じ立場になる。
アリス自身も、DOTESに感染したと思われる描写があるから。
此処で後日譚に話が移るが、利権を云々言える連中が出てくる程度にはDOTESの繁殖は広まってはいない、という事だったのだろうか。
はにはにみたいに社会基盤が破壊されるほどの被害が出たとは思えないのだが。
さて此処で、本編では途中退場してしまった波が再登場する。
それも懐妊している訳だが、それが原因で狙われる羽目になってしまう。
ここで重要なのは波自身がアリスを母親と認識していながら、波はもうすぐ母親になるということ。
それはかつての優作とアリスと同じだし、内容を見る限り波が優作以外の人間と性交したとは思えない、
つまり波の子供の父親が優作である事を考えるとそれまたとんでもない皮肉になる。


―――Justitia saepe causa gloriae est.(正義はしばしば栄光の原因になる。)


しかし、波にとってはこの宿命はあまりにも重過ぎるのではないか。
最後の絵の意味を正確に読み取る事はできないけれど、最も簡単に救済を与えるなら、それこそ波は子供ともども死んでしまうべきなのだ。
何故なら波にせよ波の子供にせよ、それこそ世界を救いえる価値があるから。
その価値を守るため、今度は波自身が、自分と、その子供を守る為に闘い抜かなくてはならない。
ジャイアント・ロボ最終話における幻夜の台詞が思い起こされる。
こんな大きいものを託して、彼女の周りの人間はどうなったのか。
死んで良いなんて誰が許した、とはアリスの独白だが、波自身も、決して死んではならない存在になってしまう。
そんな宿命を背負わされ、一体どうすればいいのか。
やはり草間博士の問いかけを叫びにして返すのだろうか、何かを犠牲にしなければ幸せにはなれないのか、と。


―――Homo homini lupus.(人間は人間にとって狼である。)


人間の敵は所詮人間だ、とエヴァチックに。
世界を救おうとしたアリスに立ちはだかる最大の敵はDOTESなんかではなく、同じ人間だった。
その、あまりにも分かりやすく醜い世界の縮図、人間は所詮こういう生き物だと突きつける。
アリスの命を蝕んだのは世界を蝕む奇病などではない、人間の足音、人間の作った道具、人間の意志であった。
ただ我が儘に、自らが救われればそれで良しとした世界を。
そこに救い得る価値があるかどうかを問うなら、アリスに与えられた答えは、キング・オブ・ハートに与えられた答えと等しかった。
・・・愛する者が一人でもいるなら救う価値はある、大切な人の為に命を賭ける、それが男の定め。


―――Levis est fortuna: id cito reposcit quod dedit. (運命は軽薄である、与えたものをすぐ返すよう求めるから。)


少し戻って本編の話を。
アリスにとって悔恨だったのはやはり、少しの間しか優作と「再会」出来なかった事だろう。
しかし運命を正当に非難できるものは誰もいない、彼らが別であったとしても、人が救うに値しないという可能性を示唆される程度に醜い事は後日譚で明示されているから。
此処で問題となるのは、この時点から既にメインとなる視点が優作ではなくアリスに向かっているという事。
物語の主軸にいる人物が、アリスになっている、という事。
恐らくこの作品における本当の意味での主人公は、死と言う形で幸福を迎えられた優作ではなく、幕を握ったアリスだったのだろう。
(しかし、記憶を取り戻させる薬とはまた残酷なものを・・・。)


―――Pios et probos praemium vitae aeternae exspectabit.(永遠の生という報酬が、敬虔で善良な人々を待ち受けるであろう。)


パッケ絵における「救う」という言葉が半分真実で半分が悪質な法螺、としたのは、
アリスや波が迎える宿命を考えると途中退場している優作やフェイはあまりにも幸せすぎるから。
最後に母親の幻影を見ながら死ぬことができた海にしたってそうだ。
(ところで海は最後に理性を取り戻したが、恐らくDOTESはある条件下においてはその活動が停止するか人間と一体化するのだろう。
だから波とその子供の存在は、人類がDOTESに克服できる可能性を示唆している。
また獣人たちは理性が崩壊しても本能までは忘れていなかった、それに従い波やアリスより先にメジャーの戦闘員を攻撃した事を考えると、
恐らくぎりぎりのところで生命体としての活動は放棄していない。
作中の描写を見るに、獣人同士が組んで組織的行動を起こすのだから知性が欠如しているとはいえない。
Su−37氏の考察はたぶん正しい。
脳の機能を破壊して死に至らしめるのが目的なら発狂より先に植物人間になるだろう。)
恐らく世界は救われたのだろう、そして人は醜い出来事は忘れてゆく。
世界の為に闘った一人の少女の名前は、後に獣化した人類が築き上げる繁栄の下に沈んでゆく。
・・・どうか、美しい夜を。


―――Odi et amo.(私は憎み、そして愛する。)


しっかしまぁ、そういった考察とかはすっ飛ばして、この作品はただただ衝撃的なばかりであった。
ここまで深く入り込めた作品は近年では珍しいし、ここまで賞賛しながら決して愛せない作品は初めてだろう。
理由はただ一つ、最後には笑っていたかった、それだけなのだ。


あと最後にフェイについて愚痴。
某先輩と声が同じって時点で心が離れる・・・、いや、声優さんに罪は無いんだからちゃんと受け止めよう、と思ってたんだけど。
あー、やっぱ駄目だ、声が云々じゃなくキャラ立て自体が駄目、この手合いは嫌いなタイプなんだ。