データが残るだけマシと思いねぇ


例の青少年ネット規制の話に絡めて。


そもそも教育の現場に建つ人間が往々にして理解せず、また認めたがらない現象に、いじめと言うものがある。
彼らの中では、いじめと言う行為は凄まじく重たい行為として認知され、おおよそ人の道を踏み外した畜生の成す事と思っているのだろう。
だが、残念ながらそれは完璧に誤りである、というかそんな認識だからいじめによる自殺は食い止められないのである。
いじめの動機は非常にシンプルで、「ただなんとなくムカついたから」、これで十分だ。
当然、彼らは自分の行為の延長線上に人間の死が待ち受けているなど思いもしないし、仮にそうなったとしても、元々目障りだった奴が永遠に黙った程度のことでしかないのだから、心に傷を負う事も無い。
専ら追い詰められるのは、被害者の遺族だけだ。
さていじめられる側も抵抗しなければならないわけだが、果たして誰に頼るべきかをまず考えなければならない。
ここで最も障害となるのが、「自分がいじめられていることを証明する」事だ。
ぶっちゃけ、暴力沙汰なんて証拠に残らない。
明らかな傷口があったとしても、そこから犯人を特定する事も、否、それが「いじめの証拠である」事すらも信じてもらえないのである。
これは教育者、ここでは担任の教師の人格が著しく悪い訳ではない、もちろん中には到底褒められた人格を持たない者もいるが。
彼らは往々にして、自分の受け持つ生徒がいじめなどと言う非人道的好意を成す筈が無いと信じきってしまっているのだ。
よって、いじめを受けた生徒からの相談は、兎に角人間の慈愛だの何だのを口説くことに終始する。
最も酷いタイプの教師は、そりゃ自分も虐めに参加する輩であるが、それよりワンランク下の教師とは、自分のご高説で生徒が救われる事に満足する奴である。*1
つまり、いじめを受けた生徒に対して、救いの手を差し伸べたような気分になっているだけの、ただの自己満足である。
こちらは、事が発覚しようが社会的に善人と認識されるため、裁かれる事すらない、ある意味一番タチが悪い。
当然彼らの考えにより「いじめは無い」ことにされる。
すなわち性善説を信じる教師の慈愛により、虐めは看過され、助長されるのだ。
とかく、いじめによる自殺が後を絶たないのは、教育者が動き出すのは大抵、最悪の事態か、その一歩手前に来たくらいだ。
教育者はそんな場面しか見ていないので、いじめと言うものが非人道の極みと錯覚しているのか。*2


さて、学校裏サイトのいじめがいかなるものであれ、それは現実世界で発生するものと大して変わりは無い。
いじめる側はなんとなくムカついたからで、いじめられる側はなんとなくムカつかれたからと言う程度だろう。
決定的に違うのは、ネット上でのいじめは個人の特定がしやすく、そしてデータによって確かな証拠が残る、と言う事である。
確たる証拠が存在する以上、いかに性善説を信じる者とて動かない訳にはいかない。
ネットでのいじめの最大のメリットは、いじめられている側が立証するのが容易と言う点にある。
これを「有害」として規制する行為は、すなわちいじめを容認するものと考えても差し支えない。


事態を分かりやすくする便利なツールを有害呼ばわりとは本末転倒である。

*1:教育委員会が云々と言うのは誤りだ、彼らは最悪の事態を過ぎてからでしか事の次第を確認できない。

*2:ぶっちゃけ、人に頼ってどうこうできると思うなら最初から頼るっつーに、頼りにならないから一人で立ち向かわざるを得ないって事を教育者は理解していない。