「内心の自由」について


http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080313/p1


・・・いや、根拠が無いじゃないか。
児童ポルノに限定せず)ポルノに触れている人間の欲望が、或いは実在する女性に向けられたのかもしれない、という恐怖は、実体が無いでしょ。
具体的に身体的なり金銭的なりの、物理的な手段で脅迫された訳じゃないし、何もしていないのに怖いとか言われましても。
それじゃあ、人間そのものに不信感と恐怖を抱いている人間は、このロジックを使って人類抹殺をしても法的に許されちゃうのか?
明日あさって、見知らぬ誰かに銃で撃ち殺されるかもしれない、という恐怖を抱いているなら、道往くヤクザっぽい、だけど本当は人の良いお父さんをぶち殺すのもありになってくるぞ、それ。
「かもしれない」はあくまでも「かもしれない」だ、確定事項ではない、根拠なんて無い。
エロゲオタはエロゲを通じる事で実在する女性に性欲を向けているの「かもしれないが」、実在する女性に向ける性欲が無いの「かもしれない」のだ。
(ずっと前に、詭弁に関する記述で、「かもしれない」を使用すると詭弁に陥りやすいと書いたが、まさにそれ。)
そんなさ、「心の中で犯したら本当に犯したのと同じ」とか言われても。
それを立証する根拠が無い、だから児童ポルノを規制しよう、って、最初から最後まで印象論しかないだろう。
俺はロリエロは割りと場数を踏んできたけど・・・、12下の妹を犯そうなどと、ついには思わなかったが。

「私があなたにあなたの心の中でレイプされるならば、それは私があなたに実際にレイプされるのと一緒です」これに反対するかどうかも考えてみるべきじゃないかと思うよ。


内心の自由を主張する事が「想像の中で犯される」事とイコールに繋げられるのはどうかな?
子供の屁理屈のようでもあるが、女性がオタに対し「アンタ今頭の中で私を犯したでしょ」と言ったって、「そんな事してねぇよ」と言われたらそこで話が終わる。
それを、児童の権利だのセクハラだのを持ち出して強引に話を続けて、オタが女性を、想像の中で犯した事に仕立て上げているだけじゃないか。
痴漢の冤罪とどこがどう違うのか。
仮に内心の自由を認めることが、想像の中で犯す権利をも容認したとしても、それを阻むのは説法なり教育なりの場所でやるべき事だ。
今からが無理ならば、これからの教育現場で実現して行けば良いし、わざわざアキバに突撃してくるんなら、女性達の純粋無垢な願いをそこで主張すれば良いだろう。
お人よしなら耳を傾けてくれるだろうし。
法律を立てて強引に内心を呪縛するなんて、極論すら飛び越えている。
ちゃんと手順を踏むべきだ。