最近のオタクは、何?


最近のオタクは〜という話



色々言われたので抑え気味に。

そして,ココが問題なのだと思う.何故なら,今のオタクたちが,もっと個性や才能なんか”も”要求する集団であったならば,こういった事態にはならなかっただろうと思うからだ.


その根拠が欲しいんですけど。
少なくとも俺は個性才能云々も一纏めにした上で自分のフィーリングに従って評価しているし。
言うほどエロゲの絵柄は画一的じゃないし、その画一的ですら悪ではないと言われているし。
じゃあ、その個性を尊重し老婆だらけのエロゲを発売したとして、誰が買う?
原画はみつみ美里七尾奈留べっかんこう・☆画野郎というそうそうたる面子なんだけどさ。
そんなのは(後の主張に関わってくるが)古今東西、需要とは見込めない程度の特殊性癖じゃなきゃ買わないよ!
普通は美女美少女が良いじゃんよ。
個性云々以前に商品として一定の品質を保つべきで、それは今だろうが昔だろうが変わってはいない。
エロゲの場合、エロ目的で使用しないといけないからその分表現の幅が狭くなるだけだ。
これから流行による絵柄の変遷は起きても、表現の幅自体は変わるまい、昔だってエロい絵は決まって美女を描いていたんだし。
それとも昔のオタクは、子供の落書きレベルのマンガだって「個性的だ!」と言いつつ面白がっていたのだろうか?
そんな事は無いと思うんだが。

確かに私も多少絵を描く人間だし,彼らの描く絵にそれぞれ(微妙な)違いがあることは見て取れるし,絵師の判定も結構できると思っている.しかし,その微妙な差を個性とか作家性といったものとして認識できるか?と言われれば,できない.


多少改定、さておき。
いや、それ主観でしかないでしょ。
と言うか少なくとも八宝備仁といたると大槍先生とのいぢの違いが分かんないとなると、それはもう感性とか言う問題じゃなくて眼科行け、って話になるレベルだと思うぞ?
貶しているつもりは無いが、本気でそう思えるのだろうか?、特に極端な例を挙げたつもりだし、これをミクロな違いだと言われると、もはや赤と緑が近似色と言われても通ってしまう。
色彩学を学んだことがある人なら分かるけど、赤と緑は絶対に見分けが付く色の組み合わせの中でも特に典型的な例だ。
そうなると、昔ながらの作風を保っている漫画家でも絵柄の違いなんて分からなくなってくると思うぞ。
あと多少でも絵を描く人間なら分かってほしいんだけど、構図の切り方にも個性が出る、絵柄が絵師のすべてと言う訳じゃない。
そもそも、「個性」とか「作家性」とやらは何だ?、とも。
昔の漫画家にあって今のエロゲンガーに無いモノはなんだね?
分からんなぁ、とりあえずエロゲンガー極値がダメとなってくるとアトムとドラえもんサザエさんの違いは作家性として認識できないと思うんだ。
つか自分の話に限定していれば、ゆるぎないだろうねその主張は。
根拠は無いけれど。
あとまぁ、俺、北斗の拳ジョジョの絵柄の違いが良くわかんないんだけど彼らの個性とか作家性を説明して欲しい。
ジョジョ立ちは絵柄じゃなくて構図の問題だけど、構図に個性は出ると一度も主張していないのでこれは「作家性」でも「個性」でもないよね。

この均一化・没個性化することが評価されていたのは,個性だとか,自我だとかが”発見”される前の話なんじゃないか?とにかく,評価基準やその背景にある考え方が違うのだから,同じような評価が過去に行われていたからといって,それを現代に持ち込んで通用するとは思えない.


ま、時代は変化するものだし、自分自身昔の話ばっかじゃねぇかと思ったのでこれからの視点での話もしたんだが。
それについては読んでくれなかったんかなぁ・・・?
俺はあの時の記事も含めて現代的な視点でも反論したんだけどね。

つまり,均一化・没個性化することは近代以前ならいざ知らず,現代で評価されるものではない…というのが私の考えである.(ビジネスとか,他の畑でなら評価できそうだけど)


自分はだから「産業だ」と言っていた、と言うか、そもそも何に於いて評価されるものではないのだろう?
評価、評価と言っているが、その評価がすなわち芸術としての分野であるなら、残念ながら論旨は全く外れる。
少なくとも自分は「芸術として」の話はしていない、「芸術である以前に」と但し書きをしたのもそこら辺を意図してるんだが。
・・・例えが悪かったな、確かにダ・ヴィンチじゃ即、芸術だ。
個性・才能以前に、商品としての品質を保てないのならそれは評価するに値しない。
そこらへんにいる小学生の落書きは個性的であっても、商売として金銭で取引される代物じゃない。
あと何故現代美術が生まれたか分かってないなー、原因は色々あるけど、一つに写真が出たから肖像画の需要が無くなったんよ。
それで、ほとんどの画家は職を失ってしまった。
別にアートの世界に完結した流れで“「個性とか作家性を主に評価しよう」といった考え方”が出てきたわけじゃない。
それまでの描き方じゃクライアントは寄り付かなくなったからそういう流れになっただけだ。
というかそういった考え方が存在していたこと自体初耳だ、詳しい人は知っているんだろうか?
あと、近代に入って個性が評価されるようになったと言うのなら。
自分が今の所一番尊敬する作家であるエッシャーが晩年に入らないとさっぱり評価されなかったのはどう説明するんだよ。
エッシャーの絵が評価されたのも、どちらかと言うと外的な圧力が強くて、アートの世界で完結しているのなら一生日の目なんて見なかっただろうし。
それに、現代美術に入ったからって誰もがダリみたいなの描いていた訳じゃない、古典派は古典派で生き残っていたのだ。
加えみやま先生も高橋先生もビジネスを視野に入れた上で話をしているんだが、そこは無視?
だと言うのならそもそも無効だ、そんな毒にも薬にもなりそうに無い「評価」など何の価値も無い。

しかし,本議論は別に評価法の正当性について検証するものではないので,当初の目的である「昔のオタクと今のオタクは(悪い意味で)違う」という考え方に無理やり戻すならば,昔のオタクは現代式な評価法で作家や作品を評価しているが,今のオタクは近代以前の感性で作家や作品を評価している…と整理できるかもしれない.


一体どんな論理だ、評価法の正当性について検証するものではないのなら「(悪い意味で違う)」に対する文末の論理は真っ向から反するぞ。
つまり現代的なものは善で近代以前は悪なのか、今のオタクこそ、最先端の「現代」にいるんだがその辺りの食い違いの説明求める。
高橋直樹氏がそう言っていたようにアートは別に積み重ねて進化しているわけじゃない、不可逆ではないのだ。
なので、古典的な感性に回帰していたとしてもおかしくはないし、それを間違っていると言うのなら、それこそが前時代的な考えだ。
現代美術と言っても無作為に個性だけを尊重していた訳ではなく、ある目指すべき地点が記されているんだけどね。
シュルレアリスムとか。
これがダメって事はだ、ウルトラマンメビウスウルトラ兄弟で初代やセブンが出ている事に涙を流す自分の感性は昔のオタクとは悪い意味で違うって事か!?
昭和マンとティガの共演を心待ちにしている少年の心は歪んでいるとでもいうのかよ!?・・・いや歪んでいるけどさ。
少なくとも劇場版メビウスについては思いっきり当時の直撃世代の方が涙流しているんだけど、これが彼らの現代的か?
(ついでに言うとゾフィーと初代と帰りマンって平成マン以上に没個性だよね、マンガの話ではないが。)
あと古典的な作風の名画なんて普通に億単位で取引されてたりするんだが。
現代美術なんて一部の作家が殊更に評価されているが、平均的な相場はかなり低い、権威を傘に着るならば、分が悪くなるぞ?
整合性がどうとかより、矛盾だらけでツッコミのしようが無い!
とにかく「最近のオタクはけしからん!」と言いたいようにしか見えないが。


あとまぁ、一連の流れで色んな人が今回の記事に対して致命的な反証を掲げているケースが多くあるので、そこらへんも加味して反論するべきだね。
曰く、そもそも今のオタクは言うほど個性を蔑ろにしてはいない、とか。
つか、自分が揚げ足取れる所にしか文句言ってないよね、この人。


追記
うむ、見事にTHEガッツを忘れた。
あの作品をして没個性とか言われると、もはや個性あるものなんて存在しなくなるぜ。
テキスト的な面ではネコっかわいがり!も相当異色だし。
あー・・・、エロゲはエロありきだけど実はそんじょそこらのメディアよりカオスじゃなかろうか。
少なくとも漫画は掲載する雑誌のカラーに指向性が持たされるけど、エロゲはオルタからランス、efからわくわく惑星プリンセスと凄まじいラインナップだし。