本当の愛は何だ

最近の話。


教養俗物の国だよな、日本は。

すなわち、彼はみずから詩神の子であり文化人であると妄想する。
これは理解しがたい妄想であるが、この妄想からして、彼は俗物とは何であり、その対立物が何であるかをまったく知っていないことがおしはかられる。
それゆえに、彼が大抵みずからが俗物である事を厳かに拒否するとしても、不思議ではない。
彼はこのような自己認識をまったく欠いているので、自分の「教養」こそ正統なドイツ文化の十分な表現であると心から固く信じている。
そしていたるところで自分と同種の教養人を見いだし、学校や大学や美術館などの公の一切の施設は彼の今日要請に即して、彼の要求に従って、組織されているので、
彼はまたいたるところで、現代ドイツ文化の尊敬すべき代表者であると言う勝ち誇った表情を抱き続け、これに応じた主張と請求をなすのである。


(中略)


そして、この特徴との不一致に即して彼に敵対し反抗するものを測量する。
かかるものを直面した場合には教養の俗物はひたすら受け流し、否認し、口を噤み、耳を塞ぎ、直視しない。
彼は憎悪に於いても、敵対関係に於いても消極的存在者である。
だが彼が一番憎むものは彼を俗物として取り扱い、彼に彼の本質を次のように語るものである。
すなわち彼は一切の強き者、創作する者の障害、一切の懐疑するもの、迷う者の迷宮、一切の疲労せる者の泥沼、高き目標に向かって走る一切の者の足枷、一切の新鮮な芽を毒する靄、探求し新生を渇望するドイツ精神を干からびさせる沙漠である。


ちくま学芸文庫出版フリードリヒ=ニーチェ「反時代的考察」(訳・小倉志祥)より引用。


あー、長いなこれ。
昔高校の図書室で読んだ奴は、かなり分かりやすく纏められていたんだが。
要するに。

  1. 自分こそが真の文化の支持者であり真の文化を知っている者である。
  2. 自分が俗物である事を受け入れない、拒否する、間違いを指摘する者についても同様。
  3. 兎に角自分が間違っているかもしれないと言う可能性自体を受け入れない。
  4. 様々なところで自分の要求を呑ませ、増徴して付け上がる。
  5. そしてこいつらは本当に価値ある創出を行う全ての者にとっての害である。

って事、なんだろうなぁ。
教養俗物と言う概念自体は、ニーチェが「俺の主張を受け入れないキリスト教はクズだ!」と仰りながら発想したものであるわけだが、いやはや、海を越え時を越えたこの日本で、ダイレクトに主張どおりの人種が蔓延っているのだから確かにニーチェは巨大だったのであろうなぁ。
アートの話。
アートなんてものに区分や分類を設けようとする奴に大抵ロクな奴はいない。
そういった連中が築き上げてきたのが、大先生の直系だけが評価され才能に恵まれ努力を怠らず素晴らしい創作が出来たとしても、血筋の問題で少なくとも生きている間は日の目を見る事の無かった作家達とその屍、である。
アートと言う言葉にこだわる人間ほどアートという概念を守ろうとはしていない、まず現実を直視し適切な手段、行動を導き出すと言う行為自体が出来ない、自分のちっぽけなプライドを守る事しか頭に無い。
ぶっちゃけあの事件は放送自粛とかNice Boat.で勘弁してくれよ、と言うか、結局チミらはアートなんて言う耳に聞こえる分だけはお高い言葉を出して舞い上がりたいだけなのね。
俺自身はアニメが誇るに値する芸術とも文化とも思わないが、それは宮崎辺りの世代からディズニーに対する劣等意識が存在していたから。
要するにヒトラーが日本に対して指摘したような「月光文化」だから価値が無いと切り捨てているのであり、三次元が二次元になったから影響が云々なんて考えは抱いていない。
自分の教養の高さとやらを見せ付ける前に、まず本格的に純文学の一冊でも読めば良いんじゃない?
ちなみにこの地上に存在する悪徳は偽善だけだってミルトン先生が失楽園で言ってた。
本人達は正義の行いだと信じているのだろうけれど自分達の為だけの正義だからなぁ、全く。


あとまた起きた事件について。
俺は人の不幸を元に思想云々を広めたくないので、とりあえず早急な真相の解明と父ちゃんが無事で帰ってくるように祈っておきます。
・・・つーかそもそも事態がどうとも言えないのに、やれマスゴミの過剰報道のせいだとか、やれアニメのせいだとか。
両方対立してはいるけれど、どっちも他人の不幸に乗じて自分の思想を広めようと言う魂胆しか見えないただの下衆ですぞ。