犠牲にされる恐れの無い奴は弱者を生贄にする事を躊躇わない


・・・トリアージって要するにボロ負け敗走中にどれだけ被害を抑えられるか、という場面における「判断」であって。
経営学って言うのは、どうやって勝つか、どれだけ負けないでいられるかの場面を順序だてる「筋書き」だと思うのだね。
どれだけ努力しても、工場で事故が発生する可能性自体は消せない訳で、その消せない可能性に対応するためにトリアージが持ち出される。
でも事故発生の可能性を消去する努力はトリアージとは言わないのではないのかしら。
その努力の部分が経営学だと思うのだけど。
てか、あの騒動自体は、比喩の方法を間違えた日本語によくある誤解の話なんだけど、飛びついた奴らはアレだなぁ、犠牲にされる側に立つ恐れがないのだろうね。
仮に経営学の比喩としてトリアージを用いる事を真とした場合、障害者雇用枠というのは消滅する。
どんだけ理屈並べたって、健常者の方が何かと有利だもの、有用かどうかの取捨選択なら当然障害者は負けるよ。
障害者雇用枠がトリアージではなく倫理的判断だというなら反論はしない、それは事実だ。
んで、実際に障害者雇用枠が存在している事が、トリアージ経営学は混同されるべきではなく、
経営学は倫理的判断も含めている、っつーかトリアージみたく余裕の無い状況での理屈ではない、という証明になるのではないかしら。
だからアレは、不当に給料をピンハネした時、仕方のない事なんだで済ませるバカの屁理屈だと思うぞ。
もっと言えば、生まれた時の性分で生きる資格を与える与えないの判断に直面した時もそうだ。
社会性を獲得しにくい性分だから生きる事が出来なくても仕方が無い、というのであれば、俺はそんな社会はぶっ壊す方を選ぶがね。
そうさせない為に倫理を持ちださにゃならんのではないノン?
とりあえず学問を齧った人達は例えがいちいち面倒くさくて理解に困る。